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ミュージック・マガジン

日本のポピュラー音楽を批評し続けてきた「ミュージック・マガジン」誌が創刊から55年を迎えた。 1969年4月に中村とうよう、飯塚晃東、田川律らによって『ニューミュージック・マガジン』として創刊され、1980年には「ニュー」が取れ、以来「ミュージック・マガジン」として今も日本の音楽ジャーナリズムの先頭を走っている。
創刊号の執筆陣は中村とうようの幅広い人脈から、小倉エージ、北中正和をはじめ、植草甚一、福田一郎ら既に高名だった評論家から、更には寺山修司、加藤和彦、片桐ユズル、粉川哲夫といった当時のアンダーグラウンドカルチャーの雄が並ぶ画期的なものだった。中村自身が書く毎号の批評「とうようズ・トーク」も時事政論として秀逸で、単なる音楽紹介に留まらず時には政治までをも語る新しい音楽評論の分野を切り開いた。当時の音楽雑誌がグラビアを中心にミュージシャンをアイドルのような形で編集しているのとは一線を画していたのだ。特に力を入れていた「クロス・レヴュー」は、編集部がピックアップした毎月話題の新譜7作を、4人の評者がそれぞれの専門をこえて短評と点数を付けるというもので、ミュージック・マガジンを骨太な評論誌とする原点となった。
音楽配信やストリーミングなど想像もつかなかった60年代に、中村とうようは音楽美学を研究する小泉文夫とレコード会社を説得し、ブルースからリズム&ブルース、フォーク、フォルクローレ、キューバ音楽、サルサ、サンバ、アフリカ音楽、インドネシア音楽等、世界中から“民族音楽”という多様なる音源を収録し、「ワールドミュージックシリーズ」として次々と音楽出版を行なった。この出版を決断したビクター音楽産業も偉かったが、この英断が日本の若者が世界の音楽文化を理解するきっかけを作り、その後の日本経済をリードする若い企業戦士たちの世界文化への理解と価値観を醸成したと言っても過言ではない。
1964年の東京オリンピックで世界に羽ばたいた日本。小泉文夫が翌年「日本傳統音楽の研究」によって西洋クラシック至上主義から日本の音楽史を解放したことを背景に「ニューミューック・マガジン」が生まれ、その短い数年間に日本の大衆音楽文化は第三世界の価値に目覚めて、今では想像もつかないエネルギーを解放し始めた。
しかし、膨大な音楽をストリーミングで消費していく経済至上主義の世界において今、中村とうよう亡き「ミュージック・マガジン」はどこへ向かって行くのだろうか?

| 24.05.17

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